2010年3月31日水曜日

Ⅹさん

年度末。明日からは新年度。別れと出発のシーズン。
私にとっては記憶に残る年度末になった。この10年来、最もお世話になったと言える関西経済界の重鎮とも言うべき方が転出されることになったからだ。大きな新聞報道を目にしたときはショックで声も無かった。
シカゴから帰国して間もなく、ある事業を担当した。その事業は「時代に合わない」などとの批判も多い事業ではあったが、私の判断では「必要な」事業であった。実行できるかどうかは極めて不透明であり、一時は「あかんかも」という局面もあった。そんな時、ある方(その人物が誰かが何故か思い出せない)が「Xさんに相談しなさい」とヒントを下さった。
ある大企業の偉い人物に相談しろと言うアドバイス。私単独ではとてもお会いできるような人物ではなかったので、わが社の偉い方と共に訪問した。その人は極めて優しく、包容力ある人物だった。「関西のためにはやらなあかん」。理屈や効率などには全くこだわらない判断。

「こんな方がいたはるんや」

と感動を抱きつつ、会社に戻ったのが昨日のことのようである。その後もなにかとご相談させていただき、そのたびごとに誠意のあるご指導を賜った。きどらず、威張らず、いつも優しい笑顔でお話を聴いて下さった。

今日がXさん退任の日。会社を訪問した。そんな慌しい日であるにもかかわらず1時間近くもお時間を割いていただいた。その言葉もXさんのお人柄そのものであった。

「幸せな会社人生やった。本当に恵まれ続けた。こんなに幸せであり続けることも『おかしいんちゃうか?』とも思ってましてね。もうこの辺で、と考えて、決めました」

「知足」は私の好きな言葉のひとつである。私が尊敬する方には同じ共通点を感じる。そんな方と巡り合えた幸運に感謝したい。

2010年3月24日水曜日

ラインバック選手って、知ってます?

不確実ではあるが、私には密かな自慢がある。
昔、阪神タイガースの外野手として活躍したラインバック選手に日本で最も早く会い、サインをもらった(はずの)ファンなのである。場所は伊丹空港。wikipediaによると1976年来日とあるからその年のことだったのだろうと思う。私は、何かの用事で空港の喫茶店に家族といた。そこに何人かの日本人に付き添われたその外国人が入ってきた。万博後とは言え、まだまだ街中で西洋人を見ることが少なかった時代であり、またその外国人がかなりの長身でカッコ良かったことから、私はその人物は「只者ではない」と直感し、ずっと見ていた。そうこうする内に、「阪神の新しいガイジンらしいで」ということが漏れ伝わってきた。初めてまじかに見るガイジンの野球選手。私は喫茶店のテーブルにあった三角に折ったナプキンをひろげて、サインをお願いした。薄っぺらいナプキンにサインをお願いすること自体が非礼であることなどその東洋人の小僧は知る由もなかった。ただ、そのガイジンはニッコリと微笑み、私には理解できない言葉で話しかけ、とても気持ちよく黒色のボールペンでサインをしてくれたのである。
実のところ、私はそんなに阪神ファンではなかった。どちらかと言うと、当時は高橋一三というピッチャーが大好きで、たまたまその選手が所属している巨人に関心がある程度の野球ファンであった。したがって、折角頂戴したサインであったが、どこかに失ってしまったし、かてて加えて、そのサインをしてくれたガイジンがラインバック選手だと言うことさえ暫くの間、知らずにいたフトドキモノでもあった。ところがある時、多分、高橋一三が投げた阪神-巨人戦をテレビで観ている時だったと思う。必死に打球を追い、フェンスに激突してもボールを離さない外野手がいた。勢いで帽子が脱げ、その選手の顔がテレビで大きめに写った。「あっ」と声が出た。そのライトの選手は伊丹空港で優しくサインをしてくれた、あのガイジンさんだったのだ。
それ以来、私は高橋一三とラインバックのファンになった。ラインバックはガッツ溢れるプレーで阪神ファンの心を掴んだ。過去の阪神の助っ人の中でも、その人気はトップクラスであろう。あの闘志、そして、あの優しさ、今から考えても人気があってしかるべき選手だった。事故で亡くなられたことは、後に「探偵ナイトスクープ」で知ったが、今だに忘れられない、大好きなスポーツ選手の一人である。

2010年3月23日火曜日

ハワイアンの口笛


「ブラジルで茶室を造る」
今から40年位前だろうか、父親がいきなり訳のワカランことを言い出した。どこからの情報かは知らないけれど、「このビジネスは成功する」という確信があったようだ。当時から台湾やら香港やら中国やらに「出張や」と言っては出歩いていた父親の言葉だけに、「ホンマにするんちゃうか!?」と心配した母親をはじめ家族は、当然のことながら大反対した。家族が反対したからでは無いと思うけど、最終的に父親は実行はしなかった。多分、それ以上の「商売のネタ」か「おもろそうなこと」が出来たから目移りしたのではないかと想像している。
今から思うと、父親の経歴は、なかなかおもろい。大学を出て、最初は税務署員になった。「税務署時代、署長よりも早く出勤したことはイッペンもなかった」と、しょうむない自慢を聴いたことがあるが、その後、祖父の跡を継いで工務店を経営するようになる。その後は、ええように言えば「青年実業家」のごとく、自動車整備工場やレストランなども経営する。今から思うと、大阪市内に作ったレストランは後のファミリーレストランの原型みたいなスタイルであり、なかなかセンスがあったようだ。その間もいろんなビジネスを起こしては止めたりの繰り返しであった。それだけに、羽振りが良い時は良かったし、そうでない時はかなり苦労したようである。
ただ、いかなる時も、子供には決して贅沢はさせなかった。友達が皆、ローラースケートや自転車で遊んでいるとき、いくら頼んでも買ってくれないような一面があった。旅行もしかりである。遊園地や映画に連れて行って欲しいと言ってもほとんど聞いてはもらえなかった。ただ、何故か「海外」旅行には極めて「気前」が良かった。周囲には海外旅行経験者が一人もいなかった40年程前に家族でアメリカ西海岸やハワイや香港、グアムなどに旅行していた。そして、自身は全然英語も喋ることができないにもかかわらず、毎年オーストラリアや米国の交換留学生を一月近くも自宅で預かるという「離れ業」までやってのけていた(最大の被害者は姉ではあったが・・・)。国際的なことが好きだったのかもしれない。
ちょっと発想が違っていた。写真フィルム会社に勤める研究者の娘婿に、30年前頃から、「これからは今までみたいなフィルム作ってたらあかん」と、ことあるごとに言っていた。大学院の化学出の娘婿にすれば銀化合物のフィルム以外に考えられないにもかかわらず・・・である。しかし、今のデジタルカメラを見ると、当時の父親の発想は「当たっていた」のかもしれないと思う。

とにかく、おもろい父親だった。
夫婦喧嘩をしようが、金策に走り回ろうが、ハワイアンを口笛で吹きながら帰ってくるようなおっさんであった。懐かしいなあ、と最近しみじみ思っている。

2010年3月21日日曜日

龍馬の時代から

久しぶりに東京に行った。昨年の丁度今頃、姪っ子の結婚式で行ったっきり・・・かなあ?(その後、1~2度は行ったかもしれんけど。そんなことはすぐに忘れるのが私ではあるけれども・・・)。とにかく、最近は大阪近辺から動くことが少ない。それだけにたまに電車に乗ると疲れる。
ほんま情けない。
仕事は夕方までに終了。夜は旧知の方々とお会いした。皆さん元気である。皆さんそれぞれに様々な世界の第一人者であり、日頃私が尊敬している方々である。こういう環境に接することができるところが「東京」の利点なんだろうと思う。元々大阪に居られた方、今も大阪を活動の拠点にされている方もいらっしゃるが、お会いするのは東京で、である。
東京で活躍する大阪出身者も多い。でも、成功する場所のほとんどが東京。サッカーで言えば大阪はJリーグで東京はプレミアリーグもようなものかもしれない。東京で認められて、やっと一人前、全国区ということになる。
龍馬も江戸を目指した。
今もそれは変わっちゃあいない。
「土佐を変えても日本は変わらん」ということか。

2010年3月19日金曜日

これか!

インデアンカレーのピラフを初めて見た。先日の昼過ぎ、クリスタ長堀の同店に入り、カウンターに座って私が、、「スパゲティ」と注文したのと同じタイミングで、横の席に座ったサラリーマンとおぼしき男性が、「ピラフ」と注文した。
その注文に対し、「5分ほどかかりますがよろしいでしょうか?」と店の方。「ホゥ、そうなんや」と私は軽く驚く。注文主は「はい」と答える。ほどなく、私のスパゲティが目の前に。そそくさと頂く。そして、スパゲティが半分終わった段階でもピラフはサーヴされていない。それどころか、残り1/3となった段階でも未だなのである。「これはいかん。このままでは、ピラフを見ずして終わってしまう」、と感じた私は、残りのスパゲティを「丁寧に」口に運ぶ。
その時、奥の厨房がチラリと見えた。フライパンを振ってピラフを作っている!色合いからしてまもなく完成のようだ。そして、その1分ほど後、ピラフは注文主のもとへ。ちょっとひらべったく盛ってある。カレーなどと同じように、グリーンピースが乗っている。ニンジン、ハムは確認できた。あまりジロジロ見るのも、気が引ける。
その時、思った。「そんなに気になるんやったら自分で注文したらええやないか」と・・・・・・。
せやけど、インデイアンカレーに来たら、注文するのはスパゲティ、というのが私の今の「習慣」やし。それに、カレーの店でなんでカレーが乗ってないもん食べなアカンネン。カレーの店に入る時は、口と胃袋と脳細胞のどっかはカレーのスパイスショックを欲求しているんやから、仕方ないやないか!!と・・・・・。そんなことを思う、私は、ケッタイナおっさんや、と、実感はしているのではある。そうでは、あるのだ、けれども・・・・。

2010年3月8日月曜日

必死のパッチ

この本は、反則だ。これほどの経験をした人が文章を書くと、どんなフィクションも太刀打ちできない。文庫本になった「必死のパッチ」(桂雀々)を読んだ。以前から気になっていたけど、何故か読まなかった。著者は私と同世代である。それだけに時代背景はわかっているつもりである。でも、著者ほどの境遇を経験した人を私は知らない。
「人生には、ひとつの無駄もない」と言われる。著者もその立場に立っている。必死のパッチで生き抜いたから言えることなのだと思う。食卓に置いていたら、中学生の次男も読んでいた。感想を聞いたら、「すごいなあ」と、SFかコミック本を読んだような顔をして答えた。今の世代にとっては、この物語の時代や背景、生活感は既に「時代劇」の世界なのかもしれない、と気がついた。

2010年3月6日土曜日

何を犠牲にするのか

「やっつけ仕事」という言葉がある。時間や余裕が無い中で「こなす」仕事のことと私は理解している。「やっつける」場合には、何かを省略、もしくは犠牲にする必要が生じる。企業の場合、たとえば、商品が売れること、高い評価を受けること、顧客のニーズを満たすこと・・・などが最終・最大目的になるのだろうと思う。その場合、犠牲にされることは社内の調整、利益率の削減、そしてまた、従業員の余暇時間・・・といったことになるのだと思う。企業のイケナイ論理で従業員をこき使い、フル回転させることで「売れる商品」を作り、市場に提供している側面があるのかもしれない。この循環に私は賛同できない。でも、企業が生き残り、社員の生活を保証する、社員を仕事を通じてレベルアップさせるといった観点からは渋々yesの立場でもある。

他方、こんな会社もある。優先される用件は、①社内の同意、②あいまいな慣例、③いろんな意味での「軋轢・不満」を生じさせないこと・・・。そこで犠牲にされるものは、なんと「仕事」そのものである場合が多い。「少しでも顧客満足度の高い商品・サービスを生み出そうとする意欲」が生じさせる良い意味での苦労や軋轢を毛嫌いし、現状維持でよしとする風潮の蔓延。そういった会社では目端の利く社員は楽チン仕事にずいーっとシフトし、人材育成も頓挫する。「一生懸命しても一緒や」「しんどい思いするだけ損や」「誰も見てへんし」・・・。この現象の根源は、マットウナ判断・評価の目を有しない評価側の無能さに由来すると断言できる。

いくらなんでも、顧客へのサービスを犠牲にしてはならない。そして、「緩く」仕事をすることが、自身の成長に大きなマイナスを生じさせることにも当事者は気づかなくてはならない。

2010年3月2日火曜日

スペシャル・ワン


「自分が世界一の監督だとは思わない。しかし、私以上の監督がいるとも思わない」。

イタリアセリエAインテルの監督を務めるモウリーニョの言葉。自らをスペシャル・ワンとも語る監督の自信は実績で証明されている。この本は一気に読んだ。サッカーを学べば学ぶほど、サッカーの世界とビジネスの世界の同一性を感じる。名監督は名経営者に通じる。モウリーニョのこんな言葉もある。
「私にとって偉大な選手というのは、インテリジェンスな選手のことだ。私と同じボキャブラリーでサッカーを語り、監督の要求を一瞬にして理解し、何かを強制する必要の一切ない選手。そして、強い自尊心を持ち、決して満足せず、失敗や敗北を受け入れようとしない選手。チームの中にそういう選手を擁することは、監督が強いリーダーであるために極めて重要だ。」
強い組織であれば、強い個の集まりであれば、この言葉は素直に受け入れられるであろう。しかし、そうでなければ、その組織は闘う資格さえも有しない「群れ」に過ぎない。厳しさの中にある研ぎ澄まされた「意思」が眩しく、眩い。