2011年5月20日金曜日

facebook

今から約26年前、卒業旅行で欧州をブラブラしていた。その時に出会ったYさんから、たまたま登録していたfacebookに連絡が入った。「ええっ」という驚きでfacebookのネットワーキング機能を知ることになった。使い方は未だに良く分からないけれど、「つながり」を確認するツールとして人気を集めているのかなあと感じている。それにしても何千人もの「友達」を有する「一般」人がいることには驚く。「普通、そんなに友達なんかおれへんやろ!」、と突っ込んでしまうけども、それはそれでおもしろい。永らくご無沙汰している方、そうでもない方もお気軽に私のfacebookをご覧ください。歓迎光臨!

2011年3月15日火曜日

大震災で・・・。

大震災の事実に直面して、いろいろ考える中で、自分の想いを整理して下さった文章に出会うことが出来た。さすが、だ。今は、決して当事者を批判しないし、誰もがそうあるできだと思う。批判に注ぐエネルギーはあまりにも無益だと思う。
http://blog.tatsuru.com/

2011年2月17日木曜日

80年代

この数日、しんどい日が続いた。あんまりしんどいので、久しぶりにTSUTAYAに行って、CDを借りた。なんか、今は80年代が恋しい。そんなCDをipodに入れて聴いた。堺筋本町の駅を上がって会社まで6~7分程度の道すがら、音量を上げて同じ曲を2回聞いたら「覚醒」した。すごい!声もリズムも、そして歌詞も良い。
ああ、スカッとした。

だけど
こころなんて
お天気でかわるのさ
長いまつ毛がヒワイねあなた
罪な目つきしてさ
「命あげます」なんて
ちょっと場末のシネマしてるね
このまちは広すぎる
big city is a lonely place
独りぼっちじゃ
まちの灯りが
人の気を狂わせる
桜吹雪にハラハラすがり
あなたなしでは生きてゆけぬ
うぬぼれないで言葉じゃだめさ
男らしさを立てておくれ
・・・・・
あしたになれば、陽はまた登る
女ですもの
泣きはしない。

2010年11月3日水曜日

山下達郎

ああ、あの人が同時代にいて良かったなあ。と、思える人がいる。私の場合、何人かいるが、ちょっと年上で、先方は私のことを何もご存じないけれども、山下達郎さんは、「よかったなあ」と思える存在である。何と言っても、その歌声が私は好きだ。古い曲も最近の曲も素敵である。どうしてこんなことを言うか、というと、最近、ipodで聴いているからである。朝でも昼でも夜でも街中でも海でも書斎でも気分がいい。しっとりともスカッともできる歌声は凄い。姿をTVに晒さないところも、ちょっと昔のフォーク歌手っぽくてエエで。

2010年7月1日木曜日

ミーツ「から」の道が、より面白ろそうや

 昨日、仕事で山口へ。長州である。奇遇なことに、その前日、会津の方と接点が・・・。まあ偶然やけど。2時間ほど新幹線。新大阪の文教堂さんで本を購入。「ミーツへの道」である。W杯の関係もあり、アホのようにサッカー本ばかり読んでいたこともあって、まだ通読できていなかった(江さん、ごめんなさい)。
 でも、もちろん、「本の雑誌」の連載は毎号読んでいた。一気に「再読」。不思議なことに、毎月「もうちょっと読みたいなあ」と、思いながら読んでいたのと、一冊の本として読んだのでは、「受けた印象」が異なっていた。ちょっと、「重い」のである。ずしん、とした感じを受けた。もちろん、内田先生の江さんとの初対面の場面には笑いが抑えられなかったし、サーファー時代の話は当時の大学生の世相が懐かしく、エエ感じの気分に浸ることができた。でもトータルとして「重い」のであった。
 その理由は形容し難い「反吐の出るような」組織人の存在を想像したからかもしれない。気がつけば、編集部の全員が会社を去っていたという事実からかもしれない。いずれにせよ、Meetsという雑誌、江さんの仕事の成果には何の関係もなく、「評価」や「取り巻く環境」が気持ち悪く変化する様に「ああ、しんどかったやろうなあ」と思うばかりである。
 とにもかくにも、「Meetsの江であり、江のMeets」であった。それ故に江さんの心中には濃い澱のように「Meetsに対する想い」が今もって沈澱しているハズである。そして、この本を上梓しても、その「澱」は決してクリアにはなっていないハズである。そんなことで精算できるほどの想い入れでは決してなかったハズである。
 だから、そういうキツイ経験をしている江さん、だからこそ、今、出来ることがあるんだろうなあ、と最近思っている。Lマガにあのままいれば、為し得なかったこと、そんなことを今、実行する。実行できる。

 そう出来るのも、「つまらん奴らのお陰や」と思えば、「人生には一つの無駄も無い」のかもしれない。

思いたくもないやろうけどね。ハハハ。

串カツが胃にしみる。


「書こう」という気が出てきた。再開です。先日は140Bの年に一度の総会。堅調な業績。しかし、私の責任を痛感する。やはり、迷惑をかけてしまった。ああ情けないなあ。

2010年5月21日金曜日

ナカノシマ大学

140bが主催するナカノシマ大学に初めて参加した。大阪城の見える追手門大学の会議室には100名近い参加者が集まった、講師は高島幸次先生。知識とユーモア溢れる名調子であっという間の1時間半だった。仕事としてセミナーを年間「山ほど」企画する立場として、ナカノシマ大学は見習うところが多い。7時~という時間設定ゆえにサラリーマンらしき方々が主流ではあるが年配の方や若い人もほどよく参加しており、楽しげな独特の雰囲気がある。「参加してやろう」という空気ではなく、「参加したい」「楽しみたい」といった心地よさがある。1800円という受講料を徴収するところも良い。参加費で開催を継続するというまっとうな意思が感じられる。「大学芋」を売って事業費に充当することもあるとのこと。う~ん、こういうサロンが大阪に誕生したことは嬉しい。さすが!です。

2010年5月20日木曜日

お見舞い

しばらく、なんとか商店街の事業で休日出勤が続いたので今日は振り替え休日をとった。そして、私の「恩人」のお見舞いに。その方が倒れられたことを私は知らなかった。本当に不覚である。最近、あることで「おかしいな」と気づいて確認したら、1月末に入院されたとのこと。現在、リハビリ中で身体には不自由が残るものの、お話はこれまでと変わらず、種々、たのしいお話を伺うことができた。驚き、そして、尊敬するのが病床にありながらも、今も大阪に対する想い、気持ちが強いこと。この25年間、教えていただき、助けて頂くことの連続である。これまで、いかに強い影響を受け、支えていただいたか・・・。巡り合うことが出来た幸せを実感すると共に、感謝である。

2010年5月18日火曜日

ベルベットイースター


永らくブログを休んでしまった。なんか色々あったけど、実際は気力の問題だったと思う。
最近、よく30年位前のことを想い出したり考えたりしている。あの時はこうだったとか、あんなこともあったとか・・・。あたりまえのことやけど、ええこともイヤなことも想い出す。


空がとっても低い
天使が降りてきそうなほど
いちばん好きな季節
いつもと違う日曜日なの

こないだ、どこかの店のBGMで流れていた。
そんなにユーミンのことが好きでもなかったけど、このメロデイーに何故か敏感に反応してしまう。この曲を聴くと、あーあんなこともあったなあ、と考えてしまう。
今から考えると、「私の」時代はなかなか良かったと思う。高校時代も大学時代も。転機はバブルが終焉を迎えた90年代以降になるのかもしれない。熱狂の後の時代には濃淡が感じられない。アメリカ村の全盛期、サーファーの兄ちゃんは目茶カッコええ様に見えた。大学生がとても大人に見えた。そんな世代に憧れながらポパイやメンズクラブを読んでいた時代は今から想うと、恐ろしいほどに滑稽ではあるがなんかええ時代やったなあと最近感じる。
もちろん、ウブやったんやとは思うけれど。

2010年4月14日水曜日

う、・・・・。

約10年ぶりに体調が悪い。昔の怪我の影響か、首から背中、ひどいときは腕まで痺れてくる。首のだるさ、痛みを感じる毎に、「頭って重たいんやなあ」と痛感する。前のときは、座っているのも辛く、ほとんど仕事にならなかった。今回は、まだ軽いのでお灸をしたり湿布を貼ったり、でしのいでいる。早い目に抑えておかないと、たいへんなことになるので、生活に慎重である。ところが、おかしなもので、今、かなり慌しい。首痛にとってもっとも辛い「しんどい打ち合わせ」がとても多い。運動不足も原因だと思う。どうしたものか、多分、こんなことを考えてると、ますますひどくなるのだろうと思う。ああ。

2010年3月31日水曜日

Ⅹさん

年度末。明日からは新年度。別れと出発のシーズン。
私にとっては記憶に残る年度末になった。この10年来、最もお世話になったと言える関西経済界の重鎮とも言うべき方が転出されることになったからだ。大きな新聞報道を目にしたときはショックで声も無かった。
シカゴから帰国して間もなく、ある事業を担当した。その事業は「時代に合わない」などとの批判も多い事業ではあったが、私の判断では「必要な」事業であった。実行できるかどうかは極めて不透明であり、一時は「あかんかも」という局面もあった。そんな時、ある方(その人物が誰かが何故か思い出せない)が「Xさんに相談しなさい」とヒントを下さった。
ある大企業の偉い人物に相談しろと言うアドバイス。私単独ではとてもお会いできるような人物ではなかったので、わが社の偉い方と共に訪問した。その人は極めて優しく、包容力ある人物だった。「関西のためにはやらなあかん」。理屈や効率などには全くこだわらない判断。

「こんな方がいたはるんや」

と感動を抱きつつ、会社に戻ったのが昨日のことのようである。その後もなにかとご相談させていただき、そのたびごとに誠意のあるご指導を賜った。きどらず、威張らず、いつも優しい笑顔でお話を聴いて下さった。

今日がXさん退任の日。会社を訪問した。そんな慌しい日であるにもかかわらず1時間近くもお時間を割いていただいた。その言葉もXさんのお人柄そのものであった。

「幸せな会社人生やった。本当に恵まれ続けた。こんなに幸せであり続けることも『おかしいんちゃうか?』とも思ってましてね。もうこの辺で、と考えて、決めました」

「知足」は私の好きな言葉のひとつである。私が尊敬する方には同じ共通点を感じる。そんな方と巡り合えた幸運に感謝したい。

2010年3月24日水曜日

ラインバック選手って、知ってます?

不確実ではあるが、私には密かな自慢がある。
昔、阪神タイガースの外野手として活躍したラインバック選手に日本で最も早く会い、サインをもらった(はずの)ファンなのである。場所は伊丹空港。wikipediaによると1976年来日とあるからその年のことだったのだろうと思う。私は、何かの用事で空港の喫茶店に家族といた。そこに何人かの日本人に付き添われたその外国人が入ってきた。万博後とは言え、まだまだ街中で西洋人を見ることが少なかった時代であり、またその外国人がかなりの長身でカッコ良かったことから、私はその人物は「只者ではない」と直感し、ずっと見ていた。そうこうする内に、「阪神の新しいガイジンらしいで」ということが漏れ伝わってきた。初めてまじかに見るガイジンの野球選手。私は喫茶店のテーブルにあった三角に折ったナプキンをひろげて、サインをお願いした。薄っぺらいナプキンにサインをお願いすること自体が非礼であることなどその東洋人の小僧は知る由もなかった。ただ、そのガイジンはニッコリと微笑み、私には理解できない言葉で話しかけ、とても気持ちよく黒色のボールペンでサインをしてくれたのである。
実のところ、私はそんなに阪神ファンではなかった。どちらかと言うと、当時は高橋一三というピッチャーが大好きで、たまたまその選手が所属している巨人に関心がある程度の野球ファンであった。したがって、折角頂戴したサインであったが、どこかに失ってしまったし、かてて加えて、そのサインをしてくれたガイジンがラインバック選手だと言うことさえ暫くの間、知らずにいたフトドキモノでもあった。ところがある時、多分、高橋一三が投げた阪神-巨人戦をテレビで観ている時だったと思う。必死に打球を追い、フェンスに激突してもボールを離さない外野手がいた。勢いで帽子が脱げ、その選手の顔がテレビで大きめに写った。「あっ」と声が出た。そのライトの選手は伊丹空港で優しくサインをしてくれた、あのガイジンさんだったのだ。
それ以来、私は高橋一三とラインバックのファンになった。ラインバックはガッツ溢れるプレーで阪神ファンの心を掴んだ。過去の阪神の助っ人の中でも、その人気はトップクラスであろう。あの闘志、そして、あの優しさ、今から考えても人気があってしかるべき選手だった。事故で亡くなられたことは、後に「探偵ナイトスクープ」で知ったが、今だに忘れられない、大好きなスポーツ選手の一人である。

2010年3月23日火曜日

ハワイアンの口笛


「ブラジルで茶室を造る」
今から40年位前だろうか、父親がいきなり訳のワカランことを言い出した。どこからの情報かは知らないけれど、「このビジネスは成功する」という確信があったようだ。当時から台湾やら香港やら中国やらに「出張や」と言っては出歩いていた父親の言葉だけに、「ホンマにするんちゃうか!?」と心配した母親をはじめ家族は、当然のことながら大反対した。家族が反対したからでは無いと思うけど、最終的に父親は実行はしなかった。多分、それ以上の「商売のネタ」か「おもろそうなこと」が出来たから目移りしたのではないかと想像している。
今から思うと、父親の経歴は、なかなかおもろい。大学を出て、最初は税務署員になった。「税務署時代、署長よりも早く出勤したことはイッペンもなかった」と、しょうむない自慢を聴いたことがあるが、その後、祖父の跡を継いで工務店を経営するようになる。その後は、ええように言えば「青年実業家」のごとく、自動車整備工場やレストランなども経営する。今から思うと、大阪市内に作ったレストランは後のファミリーレストランの原型みたいなスタイルであり、なかなかセンスがあったようだ。その間もいろんなビジネスを起こしては止めたりの繰り返しであった。それだけに、羽振りが良い時は良かったし、そうでない時はかなり苦労したようである。
ただ、いかなる時も、子供には決して贅沢はさせなかった。友達が皆、ローラースケートや自転車で遊んでいるとき、いくら頼んでも買ってくれないような一面があった。旅行もしかりである。遊園地や映画に連れて行って欲しいと言ってもほとんど聞いてはもらえなかった。ただ、何故か「海外」旅行には極めて「気前」が良かった。周囲には海外旅行経験者が一人もいなかった40年程前に家族でアメリカ西海岸やハワイや香港、グアムなどに旅行していた。そして、自身は全然英語も喋ることができないにもかかわらず、毎年オーストラリアや米国の交換留学生を一月近くも自宅で預かるという「離れ業」までやってのけていた(最大の被害者は姉ではあったが・・・)。国際的なことが好きだったのかもしれない。
ちょっと発想が違っていた。写真フィルム会社に勤める研究者の娘婿に、30年前頃から、「これからは今までみたいなフィルム作ってたらあかん」と、ことあるごとに言っていた。大学院の化学出の娘婿にすれば銀化合物のフィルム以外に考えられないにもかかわらず・・・である。しかし、今のデジタルカメラを見ると、当時の父親の発想は「当たっていた」のかもしれないと思う。

とにかく、おもろい父親だった。
夫婦喧嘩をしようが、金策に走り回ろうが、ハワイアンを口笛で吹きながら帰ってくるようなおっさんであった。懐かしいなあ、と最近しみじみ思っている。

2010年3月21日日曜日

龍馬の時代から

久しぶりに東京に行った。昨年の丁度今頃、姪っ子の結婚式で行ったっきり・・・かなあ?(その後、1~2度は行ったかもしれんけど。そんなことはすぐに忘れるのが私ではあるけれども・・・)。とにかく、最近は大阪近辺から動くことが少ない。それだけにたまに電車に乗ると疲れる。
ほんま情けない。
仕事は夕方までに終了。夜は旧知の方々とお会いした。皆さん元気である。皆さんそれぞれに様々な世界の第一人者であり、日頃私が尊敬している方々である。こういう環境に接することができるところが「東京」の利点なんだろうと思う。元々大阪に居られた方、今も大阪を活動の拠点にされている方もいらっしゃるが、お会いするのは東京で、である。
東京で活躍する大阪出身者も多い。でも、成功する場所のほとんどが東京。サッカーで言えば大阪はJリーグで東京はプレミアリーグもようなものかもしれない。東京で認められて、やっと一人前、全国区ということになる。
龍馬も江戸を目指した。
今もそれは変わっちゃあいない。
「土佐を変えても日本は変わらん」ということか。

2010年3月19日金曜日

これか!

インデアンカレーのピラフを初めて見た。先日の昼過ぎ、クリスタ長堀の同店に入り、カウンターに座って私が、、「スパゲティ」と注文したのと同じタイミングで、横の席に座ったサラリーマンとおぼしき男性が、「ピラフ」と注文した。
その注文に対し、「5分ほどかかりますがよろしいでしょうか?」と店の方。「ホゥ、そうなんや」と私は軽く驚く。注文主は「はい」と答える。ほどなく、私のスパゲティが目の前に。そそくさと頂く。そして、スパゲティが半分終わった段階でもピラフはサーヴされていない。それどころか、残り1/3となった段階でも未だなのである。「これはいかん。このままでは、ピラフを見ずして終わってしまう」、と感じた私は、残りのスパゲティを「丁寧に」口に運ぶ。
その時、奥の厨房がチラリと見えた。フライパンを振ってピラフを作っている!色合いからしてまもなく完成のようだ。そして、その1分ほど後、ピラフは注文主のもとへ。ちょっとひらべったく盛ってある。カレーなどと同じように、グリーンピースが乗っている。ニンジン、ハムは確認できた。あまりジロジロ見るのも、気が引ける。
その時、思った。「そんなに気になるんやったら自分で注文したらええやないか」と・・・・・・。
せやけど、インデイアンカレーに来たら、注文するのはスパゲティ、というのが私の今の「習慣」やし。それに、カレーの店でなんでカレーが乗ってないもん食べなアカンネン。カレーの店に入る時は、口と胃袋と脳細胞のどっかはカレーのスパイスショックを欲求しているんやから、仕方ないやないか!!と・・・・・。そんなことを思う、私は、ケッタイナおっさんや、と、実感はしているのではある。そうでは、あるのだ、けれども・・・・。

2010年3月8日月曜日

必死のパッチ

この本は、反則だ。これほどの経験をした人が文章を書くと、どんなフィクションも太刀打ちできない。文庫本になった「必死のパッチ」(桂雀々)を読んだ。以前から気になっていたけど、何故か読まなかった。著者は私と同世代である。それだけに時代背景はわかっているつもりである。でも、著者ほどの境遇を経験した人を私は知らない。
「人生には、ひとつの無駄もない」と言われる。著者もその立場に立っている。必死のパッチで生き抜いたから言えることなのだと思う。食卓に置いていたら、中学生の次男も読んでいた。感想を聞いたら、「すごいなあ」と、SFかコミック本を読んだような顔をして答えた。今の世代にとっては、この物語の時代や背景、生活感は既に「時代劇」の世界なのかもしれない、と気がついた。

2010年3月6日土曜日

何を犠牲にするのか

「やっつけ仕事」という言葉がある。時間や余裕が無い中で「こなす」仕事のことと私は理解している。「やっつける」場合には、何かを省略、もしくは犠牲にする必要が生じる。企業の場合、たとえば、商品が売れること、高い評価を受けること、顧客のニーズを満たすこと・・・などが最終・最大目的になるのだろうと思う。その場合、犠牲にされることは社内の調整、利益率の削減、そしてまた、従業員の余暇時間・・・といったことになるのだと思う。企業のイケナイ論理で従業員をこき使い、フル回転させることで「売れる商品」を作り、市場に提供している側面があるのかもしれない。この循環に私は賛同できない。でも、企業が生き残り、社員の生活を保証する、社員を仕事を通じてレベルアップさせるといった観点からは渋々yesの立場でもある。

他方、こんな会社もある。優先される用件は、①社内の同意、②あいまいな慣例、③いろんな意味での「軋轢・不満」を生じさせないこと・・・。そこで犠牲にされるものは、なんと「仕事」そのものである場合が多い。「少しでも顧客満足度の高い商品・サービスを生み出そうとする意欲」が生じさせる良い意味での苦労や軋轢を毛嫌いし、現状維持でよしとする風潮の蔓延。そういった会社では目端の利く社員は楽チン仕事にずいーっとシフトし、人材育成も頓挫する。「一生懸命しても一緒や」「しんどい思いするだけ損や」「誰も見てへんし」・・・。この現象の根源は、マットウナ判断・評価の目を有しない評価側の無能さに由来すると断言できる。

いくらなんでも、顧客へのサービスを犠牲にしてはならない。そして、「緩く」仕事をすることが、自身の成長に大きなマイナスを生じさせることにも当事者は気づかなくてはならない。

2010年3月2日火曜日

スペシャル・ワン


「自分が世界一の監督だとは思わない。しかし、私以上の監督がいるとも思わない」。

イタリアセリエAインテルの監督を務めるモウリーニョの言葉。自らをスペシャル・ワンとも語る監督の自信は実績で証明されている。この本は一気に読んだ。サッカーを学べば学ぶほど、サッカーの世界とビジネスの世界の同一性を感じる。名監督は名経営者に通じる。モウリーニョのこんな言葉もある。
「私にとって偉大な選手というのは、インテリジェンスな選手のことだ。私と同じボキャブラリーでサッカーを語り、監督の要求を一瞬にして理解し、何かを強制する必要の一切ない選手。そして、強い自尊心を持ち、決して満足せず、失敗や敗北を受け入れようとしない選手。チームの中にそういう選手を擁することは、監督が強いリーダーであるために極めて重要だ。」
強い組織であれば、強い個の集まりであれば、この言葉は素直に受け入れられるであろう。しかし、そうでなければ、その組織は闘う資格さえも有しない「群れ」に過ぎない。厳しさの中にある研ぎ澄まされた「意思」が眩しく、眩い。

2010年2月27日土曜日

ニュータウンの今

自宅の近くの小さなスーパーマーケットが閉店する。
私がここに引越しして来る少し前にオープンした、地域の市場である。1971年開店とある。小学校5年生のときに私は泉北ニュータウンに引っ越した。ニュータウンは開発途上で、泉ヶ丘の駅前もまだまだ土が剥き出しのような状態だった。駅前のショッピングセンターであるパンジョが完成するのはその1~2年先、それだけに、自宅から歩いて5分ほどの近隣センターとその中心施設であるそのスーパーがまさにコミュニティの核であった。学校帰りに立ち読みをしたり、駄菓子を買ったり・・・小学校から中学校卒業までは毎日のように通った場所である。7軒ほどある近隣センターの店舗で当時から続いているのは本屋さんと薬屋さんだけ、駄菓子屋さんも酒屋さんも気がつけば無くなってしまっていた。そして、来る火曜日には、ついにスーパーも閉店するという。
父親がこの地に自宅を建てたのは、今の私よりずっと若い時。ニュータウンという名の通り、当時の街、そして居住者も若く、将来に対する希望や明るさに包まれていた。そんな雰囲気は小学生であった私も感じていた。
天王寺の市場や商店街での対面販売が「日常」であった私にセルフサービスの「近代性」を感じさせてくれたのもこのスーパーであった。約40年の歳月が街をオールドタウンに変え、居住者のほとんどを占める高齢者の買物の場も、その存在を失いつつある。
仮面ライダーに熱中し、「へんし~ん」と叫びながら走り回っていたニュータウン第一世代の子供たちもええ中年になり、そのほとんどが今では街を離れている。「成熟」した国が皆、直面する課題なのかもしれない。ただ、ニュータウンの姿は、日本の縮図であり、その展望が無いことには日本の未来も厳しいような気がしている。

2010年2月26日金曜日

ナニワのタニマチ

2年ほど前に読んだ本、「夢のまた夢 ナニワのタニマチ」(泉井純一)を久しぶりに手にとった。石油のブローカーとして儲けて、オゴリタオシテ、獄中の人ともなった人物の書下ろしである。少し似た本として田中森一氏の「反転」も抜群に面白かったけど、この本も凄い。本と言うよりも書いた人が凄いのだろうと思う。石油ブローカーとしてオゴリタオス部分ももちろん面白いが、冒頭の「闇市の大富豪」や「家業を継いで」の章も印象深い。魅力的な方なのだろうと思う。特に、「人と付き合う視点」に共感を覚える。「人の地位」ではなく、「その人」と付き合う姿勢が清清しい。それだけに、当時も今も、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いを貫いておられるのだろうと思う。現在は生まれの鶴橋で生活されているようだ。どこかですれ違っているかもしれないなあ。