2010年3月23日火曜日
ハワイアンの口笛
「ブラジルで茶室を造る」
今から40年位前だろうか、父親がいきなり訳のワカランことを言い出した。どこからの情報かは知らないけれど、「このビジネスは成功する」という確信があったようだ。当時から台湾やら香港やら中国やらに「出張や」と言っては出歩いていた父親の言葉だけに、「ホンマにするんちゃうか!?」と心配した母親をはじめ家族は、当然のことながら大反対した。家族が反対したからでは無いと思うけど、最終的に父親は実行はしなかった。多分、それ以上の「商売のネタ」か「おもろそうなこと」が出来たから目移りしたのではないかと想像している。
今から思うと、父親の経歴は、なかなかおもろい。大学を出て、最初は税務署員になった。「税務署時代、署長よりも早く出勤したことはイッペンもなかった」と、しょうむない自慢を聴いたことがあるが、その後、祖父の跡を継いで工務店を経営するようになる。その後は、ええように言えば「青年実業家」のごとく、自動車整備工場やレストランなども経営する。今から思うと、大阪市内に作ったレストランは後のファミリーレストランの原型みたいなスタイルであり、なかなかセンスがあったようだ。その間もいろんなビジネスを起こしては止めたりの繰り返しであった。それだけに、羽振りが良い時は良かったし、そうでない時はかなり苦労したようである。
ただ、いかなる時も、子供には決して贅沢はさせなかった。友達が皆、ローラースケートや自転車で遊んでいるとき、いくら頼んでも買ってくれないような一面があった。旅行もしかりである。遊園地や映画に連れて行って欲しいと言ってもほとんど聞いてはもらえなかった。ただ、何故か「海外」旅行には極めて「気前」が良かった。周囲には海外旅行経験者が一人もいなかった40年程前に家族でアメリカ西海岸やハワイや香港、グアムなどに旅行していた。そして、自身は全然英語も喋ることができないにもかかわらず、毎年オーストラリアや米国の交換留学生を一月近くも自宅で預かるという「離れ業」までやってのけていた(最大の被害者は姉ではあったが・・・)。国際的なことが好きだったのかもしれない。
ちょっと発想が違っていた。写真フィルム会社に勤める研究者の娘婿に、30年前頃から、「これからは今までみたいなフィルム作ってたらあかん」と、ことあるごとに言っていた。大学院の化学出の娘婿にすれば銀化合物のフィルム以外に考えられないにもかかわらず・・・である。しかし、今のデジタルカメラを見ると、当時の父親の発想は「当たっていた」のかもしれないと思う。
とにかく、おもろい父親だった。
夫婦喧嘩をしようが、金策に走り回ろうが、ハワイアンを口笛で吹きながら帰ってくるようなおっさんであった。懐かしいなあ、と最近しみじみ思っている。
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